教授の回顧趣味

 教授の回顧趣味は、その反抗性乃至反動性は、教授の文化史の研究をして原始的文化史の研究に向かわしめる。一般的には極めて有効で科学的なこの研究方向は、氏によれば、現在に於ける文化の歴史的発展への反抗のための方法として、採用されるのである。氏はアメリカニズムをばローマ主義に歴史的に還元し(之は一種の時間上の反動・反抗・と考えられるべきだ)、このローマ主義に反抗することによってアメリカニズムに反抗するために、「原始キリスト教」の検討を行なう。之はあまり自信もなく又評判も良くなかったが、同じやり口にぞくする『原始仏教の実践哲学』は、痛快なほどセンセーションをまき起こしたものである。 あまり哲学を知らない木村泰賢氏などが、高々新カント派風な原始仏教解釈でグズグズしていた処を、和辻氏が最新流行の哲学である現象学を甚だ巧妙に使いこなして、パーリ原典を片づけたのだから、僧侶学者達はいくじなくもこの素人に一時はすっかりしてやられた形であった。尤もこの素人には背後に宇井伯寿博士がついていたのではあったが。ここでも氏の反抗本能と貴族趣味とは、心ゆくまで満足させられた。 読者はまず、和辻教授が如何に器用[#「器用」に傍点]な反作用家[#「反作用家」に傍点]であり貴族主義者[#「貴族主義者」に傍点]であるかを覚えておかねばならぬ。

 併しこうした一般的な抽象的な反動性と貴族性とは、いつまでもそのままではいられない。京都帝大に招かれて文化史か精々美学の講座でも持てば好いものを、どう間違ったか、事もあろうに倫理学の助教授になった氏は、御多聞にもれず「洋行」の運命に見舞われる。洋行先でも亦無論のこと反動性と貴族性とは扇動されることを忘れない。西洋料理と洋服は日本のが一番良いということを氏は発見している。処で一等良い筈の日本へ帰って来て見ると、大学生達は一も二もなくマルクス主義に浮かされている。マルクス主義は新しい思想でありながらすでに世の中の大勢[#「大勢」に傍点]をなしている。氏の使命はそこでおのずから、この大勢を逆行して見ようということにならざるを得ないではないか。貴族は容易に流行などに動かされはしない、氏はこの点を身を以て証明しなければならない。 偶々学生運動に対して特有に懐疑的な皮肉をもらしたのが導火線で、河上肇博士が『社会問題研究』で、之を槍玉に挙げて了った。骸子は投げられたのだ(現在東京の高師の先生をしている某君が、コーエンなどをかつぎ出してマルクス主義を批判することによって教授の御用を務めようとしたのは、笑い草にはなったが、あまり有効ではなかったようである)。癪に触わるのはマルクス主義者である。だから氏は反マルクス主義者にならねばならぬ。生理上の反抗児は、今や政治上の反動家[#「政治上の反動家」に傍点]とならざるを得ない。 だが反動家の歩く道は無限の泥濘である。唯物史観に対抗するために風土史観[#「風土史観」に傍点]――之はそれ自身としては良い着想なのだが――が掘り起こされたり、国民性[#「国民性」に傍点]の理論がエラボレートされたりしなければならぬ、これは定石の第一歩だ。氏の「モンスーン説」、人間はモンスーン地帯、砂漠地帯、牧場地帯の三つによって、経済・政治・道徳・文化の形態を決められるという説、はとに角非常に面白いもので、島崎藤村氏などは之を激称したものだ。だが少なく共倫理学の教授にならねばならない氏は、その倫理学――之はハイデッガーの非常に器用な活用であって文理科大学あたりの道徳専攻の先生方の倫理学とは比較にならない――をこのモンスーン説に結びつける他はない。かくて出来た「国民道徳論」はそろそろ唯物史観に代用されそうである。尤もその「倫理学」(岩波講座『哲学』)が中々器用なものであるに反して、「国民道徳論」(岩波講座『教育科学』)の方は可なり苦しいアナロジーによるのでしかないが。

— posted by id at 02:35 pm  

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