和辻博士の学的労作

 私がこういうと、読者のある者は、和辻博士の学的労作が、何か出鱈目なもので、取るに足りないものででもあるように考えるかも知れない。あまりに馬鹿々々しい反動論者を沢山見せつけられている読者が、そう思うのも無理ではないが、しかし和辻博士の場合は、決してそうではないのである。博士の眼は常に警抜であり、新鮮であり、そのリーズニングは、はなはだ細心なものがある。それだけではない。博士は木によって魚を求め得るばかりでなく、魚によって木を求めることさえ出来る或る魔術の所有者だ。この魔術あるが故に、一切のテーゼに対しては、いつでもアンティ・テーゼを対抗させることが出来るのだし、常にアラ・モードでモダーン乃至シークな学術を紡ぎ出すことも出来るのである。これはインテリゲンチャにとっては胸のすくような演技である。博士の学術はだから、文化的に非常に水準が高いのだということを忘れてはならぬ。博士の、一見我儘な結論は、常にアカデミックな論証からの結論なのだ。――だがこの魔術の秘密はどこにあるのだろうか。風土とは一体、氏によってどういう概念として持ち出されているか。それを見ればこの点一等よくわかるだろう。 博士は云っている。吾々が寒さを感じるというのは、客観的な寒さがあって、それを吾々という主観が感じ取るというのではないのだ。「寒さを感ずる[#「感ずる」に傍点]時、我々自身は既に外気の寒冷のもとに宿っている。」で、外にあるものは、寒気というような「もの」や「対象」ではなくて、実は我々自身なのである。我々が寒気の内へ、外へ出ている(Ex-istieren)のである。だが吾々が共通に寒さを感じるのは、この外なる寒気が実は吾々自身であるばかりではなく、更にこの寒さの共通が実はまた吾々という相互の「間柄」に他ならないということを意味する。吾々が共通に寒さを感じるということは、吾々が吾々自身[#「自身」に傍点]を寒さという吾々人間の間柄[#「人間の間柄」に傍点]として、了解[#「了解」に傍点]することに他ならない。して見ると、吾々が寒さを感じるという現象は、寒さとして吾々自身の間柄を、つまり人間として吾々自身を、そういうものとして自己了解するということだ。寒さを感じることは吾々が自己を了解することだ。自分の人間的存在の理解に他ならぬのだ、というのである。 ところでこの寒さは「気候」というものの中の一環に過ぎなく、そして気候というものは「ある土地の地味地形景観」などとの連関においてのみ体験せられる。ところでつまり、これが風土[#「風土」に傍点]というものだ。だから我々は、風土において、我々自身を、間柄としての吾々自身を、見出すのであり、吾々自身を了解するのである。――かくて風土とは、吾々人間存在の間柄が、自己了解される一つの仕方を指すわけだ。人間の自己了解のあり方の一つが風土というわけだ。

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