風土が素より主観なのではあり得ない

 さて注意すべきは、この風土というものが主観でも客観でもないものだという、一つの根本的な観点である。風土が素より主観なのではあり得ないのは当然だ。だが又それは客観でもない。つまり主観に何等かの作用[#「作用」に傍点](或いは因果関係)を与えるだろう客観、つまりそれは自然[#「自然」に傍点]と普通呼ばれているものだが、そうした自然なのではないのである。風土はそういう自然科学的[#「自然科学的」に傍点]な範疇ではなくて、主客の対立などを根源的に踏み越えたところの、正に人間学的[#「人間学的」に傍点]なカテゴリーと考えられている。風土は人間に影響を与える[#「影響を与える」に傍点]ところの自然現象のことではなくて、かえって逆に、人間の自己了解の一つの現象だというのである。人間を何等か風土によって説明する事は正しいことではない。むしろ人間が自己を了解[#「了解」に傍点]し理解[#「理解」に傍点]するという現象そのものの一つが取りもなおさず、ただちに風土なのだという。 風土は、いわゆる自然にはぞくさない。それは人間の自己了解の仕方であった。だがこの自己了解の運動は、同時に歴史的であるのだから、そこで歴史と離れた風土もなければ、風土を離れた歴史もない。が、いずれにしても、人間存在の根本構造からしてのみ、この関係は明らかにされるのであって、自然と社会の発達史的な連関などから説明されるべきではないと云うのである。 だが、それにも拘らず、風土は、和辻博士によると、いわゆる自然[#「自然」に傍点]の人間学的代用物としての役目をチャンと帯びさせられている。吾々はこの点を見落してはならないのだ。人間存在の構造(敢えて存在物の構造とは云わぬ、正に人間存在[#「人間存在」に傍点]の構造だ)は時間的空間的だと考えられているが、その空間的というものが、この風土に相当するのである。風土はつまり「ところ」にほかならない。元来この空間なるものが、いわゆる空間のことではない。存在物の根本存在性を示す性質でもなければ、存在の形式でもない。まったく人間存在の構造内に宿るところの或る一つの契機を意味する。内なるものが外に出るという関係か連関が、空間(じつは空間性)だ。こうした人間学的な空間概念に関係づけられて、風土は空間的な「ところ」となる。そうすると今度は自然というものも亦(それは空間性をもち処を占める)正にこの風土によって、人間存在の構造に帰着せしめられることとなる。自然は人間存在の一連関のこととなる。こうした自然は、とりもなおさず風土として理解されているわけだ。

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