和辻博士による風土なるもの

 だから、和辻博士による風土なるものは、要するに人間学的に解釈[#「人間学的に解釈」に傍点]された自然のことにほかならず、あるいは少なくとも、自然の人間学的な代用品[#「代用品」に傍点]にほかならない。つまり風土という観念は、自然を人間学化し主体化するための、一つのカラクリ道具だったわけだ。風土というものを持ち出すことによって、自然はその自然としての特性、つまり人間に先んじて成立しているという特性、を見事に剥脱されて、客体的である代りに、まさに主体的であるものにまで、変貌させられてしまう。こうした魔術の言葉が風土だったのである。――で今や、和辻博士の例の魔術の秘密は風土のこの観念から見当がつくことになった。自然を人間に帰着させるということは、自然を自然としてではなくて、自然でないものとして説明することにほかならない。この調子で行けば黒いものを白いものとして説明することも出来れば、白いものを黒いものとして説明することも出来るだろう。つまり黒も白を意味[#「意味」に傍点]したり、白も黒を意味[#「意味」に傍点]したりすることは、事実不可能ではないからだ。それが意味する[#「意味する」に傍点]というかぎりにおいてはだ。と云うのは、事物の連関、ここでは人間存在なるもの、をば、それに与え得るいろいろの意味において解釈するのなら、どういう解釈でもつけることが出来るわけだ。空間については、あるカント主義者はこれを論理学的想定[#「論理学的想定」に傍点]にほかならぬと解釈した。風土観においては単に、それが人間学[#「人間学」に傍点]的カテゴリーとして解釈されたに過ぎない。 風土は人間学的解釈学の独特の愛用語とされているように見える。いや自然や歴史を人間学的に解釈学的に(同時に又、文献学的にということにもなるが)、片づけるためには、まずこうした風土の観念は大へん必要だったのだ。なぜなら、これによって、人間学や解釈学にとって、元来苦手であるところの自然の客観性[#「自然の客観性」に傍点]というものを、手際よく手なずけて「主体」化すことが出来るわけだからだ。とともに、唯物論の第一テーゼから、見ごとに解放されることになるからなのだ。風土がなぜ和辻博士の特別な興味を惹いたかという理由は、ほかでもない、ここにあるのである。自然を科学的に、というのは唯物論的に、取り上げることは、すでに時代おくれの野暮なやりかただと説明することによって、自然を人間学化し、解釈学化し、かくて又それを主体化して、自家薬籠中のものとして見せる。これこそアラ・モードな自然観だ、というわけだ。風土はだから、唯物論ないし史的唯物論を無用にするために召し出された一つの根本概念であったということがハッキリするだろう。 もちろん風土というものを述べるのに、和辻博士が用いた方法――人間学・解釈学・――は、ほとんど完全にハイデッガーのものであり、そして、それの東洋的ないし日本的文献学(フィロロギー)による一展開である(人間の間[#「間」に傍点]というものは東洋的フィロロギーから導かれている)。そしてこの種の方法は、今日、日本のブルジョア哲学の可なりの部分を支配している。が博士のオリジナリティーは之に基いて風土という一種の武器を造り出したことの内に横たわる。この武器の考案は前にも云ったように、マルクス主義社会科学の虚を衝こうという意図から出ている。生産関係や生産力というカテゴリーを辱しめるために呼び出されたものであった。だが、効用はそれだけではない。風土は「ところ」である。それぞれところどころによって異る地方の特異性を強調するのに何より便利であろう。と云うのは之によって、日本や東洋の特異性、日本的・東洋的・現実の特異性、を強調する一つの一般方法を提供することが出来る。特に日本文化・東洋文化・は、史的唯物論では説明できないということを強調するには、之が手頃の効用があるらしく見える。ここが風土と和辻的観念の最後のねらいどころだったのだ。

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