日本の人間の心理の特有性

 こうした日本の人間の心理の特有性、それの文化上に於ける表現、の考察は極めて興味もあり、示唆にも富んだものだろう。だが吾々の問題はそこにあるのではない。問題はかかる「日本の国民的性格」と、例の台風との関係[#「関係」に傍点]如何にあるのである。いったいラジオの気象通報で放送される台風の気象学的な二重性から、如何にしてまた演芸放送で放送される日本国民的なナニワ節や軍人の講演に於ける二重性が、発生するのであるか。その因果関係[#「因果関係」に傍点]については、和辻博士の細かい叙述にも拘らず、何物を聞くことも出来ない。――しかもそれは実は初めから当然だったので、元来博士の人間学的解釈学は、自然によって人間の心情を説明しようという、そうした何等かの科学的因果づけは初めから問題にしていなかったのだ。これを問題にしないためにこそ、あらかじめ自然と心理とを一緒にして、風土と主体というものになおし、そして風土、即主体という定式を与えておいたのだった。因果的な説明などはいらない。必要なのは解釈だけだ。――しかも、その解釈は実際を見ると、和辻式に警抜なファンタジーとアナロジーと、また時とすると、思いつきと、あて推量と、そして更に、こじつけとにさえ基くことが出来る。しかも牽強付会される個々のタームは極めて実証的な引例や経験に基いているというわけだ。だが、とにかく解釈学と雖も、さすがにここまで来ると、フィロロギーでは役立たぬと見える。 そして博士は云うのだ、「我々はかかる風土に産まれたという宿命の意義を悟り、それを愛しなくてはならぬ」、「ロシア的日本人」などになってはならないのだと。誰か自分の運命を愛しないものがあろう。自分を愛せよ、と云う場合には、すでに何かの伏線があるのだ。つまり、その愛し方に或る注文をつけているのだ。――だが、なぜ、博士はそういうことをわざわざ云いたくなるのだろうか。風土をああいうような観念として強調したくなるのであろうか。根本的な理由は極めて簡単だ。科学的な分析は日本的現実を分析し得ない[#「科学的な分析は日本的現実を分析し得ない」に傍点]という、極めて卑俗な迷信がそれだ。 この迷信は、しかし決して和辻哲郎博士だけのものではない。今日の大部分の曖昧思想家や曖昧文士のアラ・モードの意匠が之なのであり、粉黛が之なのである。だがこの粉黛こそは却って、日本なる彼女の愛嬌を著しく殺減する随一のものだ、ということを思わねばならぬ。 風土[#「風土」に傍点]を見出したこと、風土から日本[#「日本」に傍点]を見たこと、之は和辻氏の没することの出来ない業績だろう。ただ風土の和辻的観念[#「観念」に傍点]とその観念適用[#「適用」に傍点]の心事とが、この業績を濁ったものにしているのである。[#地から1字上げ](一九三七)[#改ページ]

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