三木清氏と三木哲学

[#1字下げ][#中見出し]19[#「19」は縦中横] 三木清氏と三木哲学[#中見出し終わり]

 三木清氏は色々な意味で私の先輩である。一体、一高の出身者が京都の哲学科へ大量的に遊学するということが三木清の影響なので(しばらく敬称を省こう)、私などその影響を間接に受けた者の一人だ。私が京都の哲学科へ入学した時には、彼はすでに大学を卒業して一年経っていた。つまり私より四年先輩になるわけである。まもなく彼は洋行した。と云うよりもドイツのマルクが安い頃だったから、勉強の能率を上げて外国へ出稼ぎに行ったと云った方が当っているかも知れない。当時そういう意味で洋行[#「洋行」に傍点]した者は沢山いたので、村山知義・羽仁五郎・其の他の諸君もそうだ。 三木は三年程して帰って来た。パスカリザンとして帰朝した彼であったが、福本和夫の台頭を見て忽ち一種の野心を起こしたらしい。俺でも福本位いなことは出来る、と傲語していたように覚えている。勘のいいことでは当時他に並ぶ者がなかったから、福本が新しい思想界に占めていた約束ある意義を逸早く見抜いたのである。京都の哲学畑にいてこの点に気づくだけでも、並々ならぬことであったという点を忘れてはならぬ。でやがて彼はみずからマルクス主義者を以て任じることになった。その「マルクス主義」なるものが私をいたく動かしたのである。三木清の影響で左傾(?)した恐らく最初の一人が私かも知れぬ。して見れば彼は私にとって非常に大切な(?)先輩と云わねばならぬ。 帰朝者の彼を取りまいてアリストテレスの講読会が始まった。私もそこへ顔を出した。この会合には三木にとっては或る特別な意味があったらしいが、私はそんなことには気がつかなかった。アリストテレスを彼に学んだという点からも、彼は私の先輩なのである。――その内、岩波の或る出版計画が発表されてその世話役が三木となった。彼は私に一冊の著述を勧めた。それが『科学方法論』という私の処女作である。この点から云っても亦、彼は私の有益な先輩だ。 京都帝大の講師の就任が望めなくなって法政大学の教授となったが、シンパ事件で之も一時やめねばならぬようになった時、その後任のような意味で私が法政の講師になった。ここでも亦だから彼は私の先輩なのである。

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