三木清は豹変の術に長けているように見える

 さてこういうように、全く色々の意味で三木清は私の先輩に当っている。三木と私との関係は私が今日感じているよりももっと深いものがある、と云った方がいいかも知れないと思う。そしてこのことは必ずしも彼と私とが似た本質の者だということにならぬ。この点もまた大切なのだ。彼と私とが、哲学をやって評論をやるというような点から、殆んど同じような種類の人間として一括して取り扱われる場合もあったし、又私が彼の子分であるかのように云う男さえもいるのであるが、それは勿論私の独自性を否定することによって私を三木に帰着させることになるわけだ。実を云うと今日では、私は殆んど全く三木清に似てはいない。例えば彼はヒューマニストとなろうとしている。私は唯物論者となろうとしている。そしてここに私自身彼に対して大きなギャップを感じているのだ。 して見ると私は、之までに、もっと早く、三木清論を書く必要があったのかも知れない。それ故に又、却って今更三木清論でもあるまいとも思うのだ。併し考え直して見ると、矢張り三木清という人物は今日の日本の思想界にとって意義の深い存在だし、最近また或る特別な意義さえ持って来たように思われるので、大いに書かなくてはいけないかとも思う。 結果から見ると三木清は豹変の術に長けているように見える。ハイデッガーがドイツで注目されると直ちに之に傾倒し、マルクス主義が日本で有力となると忽ちマルクス主義者と名乗り、マルクス主義が所謂退潮期に這入ったと世間で云い出す時には、すでにマルクス主義反対者の口吻を以て語り出す。西田哲学が愈々力を伸ばして来ると今では西田哲学のマネージャーのように振舞う。だから彼には思想上の節操とかいうものを感じることが出来ない、という人がいるかも知れない。だがこの点は必ずしも当ってはいない。必ずしもと云うのは、彼は「悧口」な男という通り相場を持っている通り、極めて聡明で要領のよいというのも事実だから、彼の豹変の心理には何物かがないとは断言出来ぬ。だが少なくともこの際、それが凡ての実質ではない。 谷川徹三氏の批評であったかと思うが、三木清なる学者は、優れた独創家というよりも寧ろ優れた解釈家だ、という言葉があって、それが比較的世間に通用している。もしそうだとすると、凡て新しく現われた支配的な事情を逸早く呑み込むことこそが、三木の本領でなければならぬわけになる。でその結果だけを見れば、マルクス主義時代にはマルクス主義、西田哲学時代には西田哲学、ということになるのも決して無理ではない。必ずしも豹変するのではなくて、時代の趨勢を追うて行く思想の牧人と云った方がよく、まして変節漢などの類ではないのだ。

— posted by id at 02:48 pm  

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