独創家でない

 彼が優れた独創家でない、ということは或いは当っているかも知れない。無から何かを創り出すというような意味での独創家ではない。彼が唱え出すものは、すでにそこに現われているものに限る。或いは彼は好んで既に与えられたものを巧妙に活用し利用する。だから彼の思想の内容は実はいつも既に知られたものであって、彼に云われて世間の一同が、そうそうそうだった、と気がつく底のものなのである。彼の文章が時々空疎であり、又時には可なり持って回って難解であるにも拘らず、その思想が案外、通俗性と常識性とを備えているのは、この点から来る。彼は発明家というよりも発見家であり、又大抵の場合達者な応用家なのであるから、本を原書で読める婦人から、時々剽窃なるものを指摘されることにもなる。つまり彼はそれ程博学であり又結局に於て勉強家でもあるということになる。ただ多少文章上の気取り屋であるために、原著者の名前を省略したり何かするのである。 独創家でないからと云って、併し思想家の恥でも何でもないことは、云うまでもない。下手に独創的な思想家はあぶなっかしいものだ。寧ろ勝れた解釈家の方が、有益な思想家だろう。解釈家というのは、最高の意味に於ける翻訳家のことでありそしてこの翻訳なるものに文化的な意義を認めることを、世間は全く知らないのだ。世界的文化の大である所以はまずそれが翻訳され得る[#「翻訳され得る」に傍点]という点に見られるのである。翻訳して価値の減る文化はロクな文化ではないのだ。但しここで云う翻訳とは文章の翻訳のことではなくて文化の翻訳のことだ。例えば三木清の解釈家たる所以に通じる処のもののことだ。 処が解釈家もすぐれた者は全然独創的でないのではない。優れた解釈家は解釈の体系を有っている。この体系はあまりそんなにクルクル変るものではあり得ない。三木は優れた解釈家だ。彼には解釈の体系が予めあるのである。このシステムが彼の思想と考えられ彼の独創とさえも見做される処のものなのである。そしてこのシステムになると彼は決して水草を追うて移って歩くわけではない。彼は豹変さえしないのである。彼は初めから殆んど全く変ってさえいない。夫はこうだ。

— posted by id at 02:49 pm  

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