学生時代から有名な秀才

 三木は学生時代から有名な秀才であった。一種の学生名士でさえあった。尤も決して律気な又は細心な勉強家ではなかった。彼は一党を引き具して四条通りを遊弋し、深更下宿に帰ることを習慣とした。一党の方はそのまま寝て了うのだが三木だけはそれから本を読むのである。おかげで一党の方は一向学業が成就しない。三木は主任教授西田先生に呼び出されて訓誨を施されたという。之は京都哲学科の伝説にすぎないが、そういう種類の才走った秀才だった。――それはどうでもよいが、この秀才が卒業前に発表した最初の学術的論文は「個性の問題」というのである。卒業論文はカントの歴史哲学に関するものであった(この学術論文? には当時のロマンスを語る序文が付いていた)。それから私が初めて聞いた講演は矢張り個性や非合理性の合理化というような問題であった。――つまり彼は初めからドイツ古典哲学的な意味に於ける歴史哲学者[#「歴史哲学者」に傍点]なのである。之が今日に至るまで一貫して動かない彼の思想上の節操なのである。 この態度から見ると、彼の思想とその変化の一切とが、一貫して説明出来る。ハイデッガーに心酔したのはディルタイの歴史哲学を通じてである。ドイツから帰って間もなく、どういう方向に研究を進めるのかと私が尋ねたら、ディルタイからその固有な制限を取り除こうと思っていると答えていた。彼がパスカル研究の論文を続け様に発表して新鮮な設題と美文を以て人を驚かせたのも、実質は必ずしもパスカルにあったのではなくてディルタイ=ハイデッガーにあったことは云うまでもない。「パスカルに於ける生の存在論的解釈」というドイツから『思想』に送った論文に始まるのがそれである。尤もパスカルに就いて別に云わねばならぬ処があるが、それは後にして、彼がパスカルからマルクス主義へまで「左傾」したのも、単に歴史哲学の一発展にすぎぬ。 当時マルクス主義(福本主義)と呼ばれるものは主としてマルクス主義的社会科学のことを指したのである。日本ではまだ本当にはマルクス主義哲学はなかった。あったにしても極めてマルクスボーイ臭い素人臭いものであったようだ。処が三木は哲学、而もアカデミー哲学、の側からマルクス主義に接近した。マルクス主義的社会科学に接近したのである。そこで世間ではこの三木的なマルクス主義社会科学的哲学を以て、マルクス主義哲学自身であり得るかのように考えたものである。河上肇博士なども、ディアレクティックという哲学法を福本からなげつけられたので、多少哲学的狼狽の態であったから、早速三木の哲学をマルクス主義哲学として役立てようとしたのである。三木自身も自分の思想をマルクス主義哲学だと考えていたらしい。 之が後に三木哲学と呼ばれるものになったのだが、その特徴は例の人間学であった。人間学がハイデッガーの存在論からの殆んど直輸入であることは今日では明らかだが、併し三木に於てはそれだけのものではなかった。人間学の背後に三木特有な歴史哲学があったからである。そしてこの歴史哲学はもはやディルタイでさえないのであって、それが唯物論的(?)に改装された唯物史観であったのである。つまり、当時の三木のマルクス主義哲学なるものは、哲学ではなくて唯物史観に過ぎなかったのであり(だから自然弁証法は否定され続けた)、その唯物史観も実は唯物論ではなくて、正に歴史哲学だったわけだ。

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