三木哲学

 三木哲学はマルクス主義に哲学的基礎を与えると称して、例の基礎経験(之はディルタイから借りた言葉である)というものを回る人間学を持ち出したが、それも実は歴史哲学の一つの亜種としてであったのである。三木哲学という近代的な歴史哲学[#「歴史哲学」に傍点]が、初めからマルクス主義でなかったことは、今にして見ればあまりに判り切ったことだが、併し数年前までは、服部・秋沢(秋沢君は初めは三木哲学を擁護したものだ――私なども本当はそうだった)・永田の諸君の三木哲学批判も中々骨が折れたわけである。そこへ三木のシンパ事件が起きた。彼が検挙されると、その前から通告してあった三木批判が、プロレタリア科学研究所で一斉に始ったのである。之は三木をいたく傷けたのが事実らしい。 元来プロ科学研究所なるものは、三木が河上肇博士等と計画した「マルクス学会」というものと、「国際文化」のグループとが合体して出来たもので、三木がその産みの親の一人であるし、それに三木が東京へ出て来て間もなく出版した『新興科学の旗の下に』というマル旗〔『マルクス主義の旗の下に』誌〕ドイツ版そっくりの雑誌(羽仁五郎君と一緒に鉄塔書院から出した)も、これを機会に廃刊にした位いだから(尤も財政上続かなかったかも知れぬ)、三木の心事も同情に値いするだろう。上京以来、北※[#「日+令」、第3水準1-85-18]吉と組んで『学苑』であったかを編集して、アカデミーの哲学者を嫌がらせたり、又新興科学で切りまくったり(被害者は故土田杏村氏や田中耕太郎氏其の他多数に及ぶ)、プロ科の哲学研究をリードしたり、其の他高畠訳資本論に対する批評によって物議をかもしたり、其の他其の他でやるだけやったということが、せめてもの本懐だと彼は述懐していたらしい(元来三木には敵が多いのである)。 三木哲学が批判され、マルクス主義哲学の本来の面目が世間に多少徹底した頃、彼は執行猶予によって出て来たが(この間約半年)、その頃から彼の転向は段々に目立つようになって来た。大乗起信論を紹介したり、西田哲学を再びかつぎ始めたり、人間学主義を益々徹底して不安の文学を唱え始めたりする。その頃は又丁度、世間でもそういう時代が訪れて来たのである。彼は完全にマルクス主義を捨てたように見える。少なくともマルクス主義的テーゼに対しては単に儀礼的なウィンクを送るに止まるようになった。時にはマルクス主義者に対する非難にさえ興味を有つようになった。

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