一人の烱眼な歴史哲学者

 だがこの転向は必ずしも三木の保身上のアダプテーションの結果ばかりではない。この転向の可能性はプロ科時代の宗教論の内にすでに現われていた。それというのも彼はあくまで歴史哲学者であったので、初めからマルクス主義者などになったことはなかったのである。彼がマルクス主義=唯物史観に接近したのは単に一人の烱眼な歴史哲学者の同情心からに過ぎなかった。三木が最も私淑しているのは今は知らぬがしばらく前までは波多野精一博士である。博士のプロテスタント的歴史哲学と歴史観とが、三木の歴史主義の大きな動機になっているが、この波多野博士が夙くから、三木君のはマルクス主義ではないと云って、その愛弟子のために誤解を悲しんでいたものである。市谷刑務所の藤井教誨師なども、この点をそれとなく感じているのだろう、三木君の転向は本物だと保証しているそうだ。だが元来、三木に於ては転向でも何でもないので、要するに本来の三木に戻ったのであり、そして別に、マルクス主義者としての三木清と撞着するようなものになったのでも何でもないのだ。彼は終始一貫歴史哲学者である。彼の『歴史哲学』という本は、著しく西田哲学の影響を表わし始めた作品だが、とに角この意味に於て代表的な著作として現われたものである。 三木がマルクス主義者であった時代というのは、実は彼の歴史主義と相対主義との時代であったということに過ぎない。彼は唯物史観を相対主義的歴史主義として理解した。だがこの相対主義的歴史哲学で不都合を感じて来たので、絶対的なものを歴史哲学的に探索し始めた。そこに西田哲学があったという順序なのである。之が彼の所謂転向の真相だ。 彼の歴史哲学は併し、歴史形而上学と云った方がいいようだ。そこにはキリスト教的神学の臭いの多少が常にただよっている。人間学というものが元来そういうものだ(パスカルを見よ)。三木にはパスカルのような一種の暗さがある。三木に於ては夫が軽度の躁欝症とさえなって現われる。三木のゲミュートは教育的本質のものだとさえ云えそうだ。とに角彼は、理知的ではあるが、決して合理的な人物ではない。セルフィッシュではあるが決してエゴイストではない。そこがこの人物の不思議な魅力の一つをなすらしい。彼の形而上学的な神学的な歴史観は彼にとっては宿命的なものだと見ねばならぬ。彼がヒューマニズムを唱えるのも、又この歴史哲学の一結論に他ならない。東洋的な「自然」主義(この自然とても実は歴史形而上学に運用するカテゴリーに他ならぬが)に対立するものがヒューマニズムだというのであり、ヒューマニズムとは、人間が歴史から生れて歴史を動かし歴史の内に消えて行くことを夫として知ることだ、という風に説明している。だから彼のヒューマニズムは勿論、決して転向の窮余の一策として持ち出されたものではないのだ。寧ろ自分のエレメントに息づいた時の叫びだろう。だが、それだけこのヒューマニズムの症状徴候は蔽うことが出来ぬ。人間と云いヒューマニティーというもの自身が、人間やヒューマニティーの「歴史哲学」というカーテンに写った影なのだから。 この形而上学的な歴史哲学はとに角として、そういう世界観を宿命として選ばせた三木の資質である歴史観や歴史主義は事物の解釈には仲々役に立つものなのだ。彼は今迄の処決して歴史記述家ではなく、いつも理論家の資格で物を云って来ているが、併し彼の言論は理論というよりも寧ろ理解か解釈の表現と云った方がいい位いだ。彼とても理論能力に於て優れていないのではない。と云うのは分析力に於て不足があるとは思われない。彼の初期のペダンティックな論文はそういう才能を充分過ぎる程証明している。だが最も得意なのは論証でも証明でもなくて、事物の特色づけなのだ。特色を色々と指摘してその間に尤もらしい連絡を見つけ出すのが三木の論文の人を捉える点だろう。要するに彼が解釈家であるということが彼の真実なのである。

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