彼の本質

 重ねて云うが、彼の本質は要するに解釈家を出ない。そういう意味に於て彼は自然人ではなくてあくまで文化人である。もし三木説に従って、自然主義を東洋的乃至日本的な人間態度とするなら、三木自身は反東洋的な一つの新しい日本人の類型であることを認めてよいかも知れない。尤も彼は東洋人ではなくてゲルマン人のようなものだと私は思っている。と云うのは彼の文化人振りの内には実は可なりの野性がひそんでいるからであるが、その野性が文化的人間性の内にまき込まれている処が文化人たる所以であり、そこから三木一流の容貌や態度や性格に於ける愛嬌と破綻とが約束されているとも考えられる。とに角彼はみずから希望しみずから定義する通りヒューマニストなのである。そしてそのヒューマニズムは解釈家的ヒューマニズムとして「限定」されるだろうと思う。 ヒューマニズムの絶対性を主張する最近の三木は、之に就いての限定を極度に嫌っている。併しヒューマニティーそのものは之を色々と限定することが出来るもので、三木説によるヒューマニズムも説明を聞いていると、その一種の限定に他ならない。して見るとヒューマニズムが絶対的で限定を許さぬということ自身、つまりそういう特別なヒューマニズムに決めてかかっていることを証拠立てているわけだ。三木説によるヒューマニズムというイデーを私は尊重しようと思う。だがそれを私に限定させれば、文化的自由主義の一種として限界づけなければならぬと考える。ヒューマニズムは文化主義ではない、文化ではなく人間が主体が問題だ、と三木は説いているが、その人間たり主体たるものの観念が初めから文化的人間を約束するのであって見れば、それまでではないだろうか。文化的人間などというその文化的というのは何かと反問されるに相違ないと思うが、それは他ではない、解釈家に相応わしいという意味に於て文化的[#「文化的」に傍点]だということなのだ。 こう考えて来ると、ヒューマニスト三木清を目して、文化自由主義者であり文化主義者であるとすることは、大して見当違いではあるまい。三木哲学の文化的内容から云ってそうだというのでは必ずしもなくて、三木清という人物の人間的[#「人間的」に傍点]特徴がそうだというのである。だから彼が仮に自分の学説か思想がそうではないのだと云っても直接反駁にはならないわけだ。

— posted by id at 02:53 pm  

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