文化的自由主義や文化主義

 処で私の見る処では、一般に文化的自由主義や文化主義、つまり解釈主義や解釈の哲学のことにもなるが、そうしたものは、その思想内容そのものから見る限り、大体、中庸で凡庸なものなのである。尤もそう云ってもそういう思想を持っている人間そのものが中庸的で凡庸だということにはならぬ。少なくともそういう思想を自分でつかんだ本人は決して凡庸な人物ではあり得ない。三木の如きそういう人物だ。併し性格や頭脳のブリリヤントな三木ではあっても、その懐く三木哲学の今云ったような特徴の方は、あまり天才的なものではない。従って三木哲学のファンには人物として凡庸ならざる者は殆んどないと云ってもいい位いなのは、不思議ではないのである。凡庸な思想の追随者は、凡庸な人物以外ではあり得ない筈だからである。 だがこういう社会の凡庸層ともいうべきものは、実はインテリ層に非常にひろがっていることを見落してはならぬ。それであればこそ三木思想は、一種の通俗性と一見大衆性に近いものとを持つことが出来る。所がこの通俗性の通用範囲、この大衆性の持主である大衆らしいもの、之は実は凡庸で鋭さを欠いた或る種のインテリ層だったのだ。三木思想はだから、元来真の大衆の思想的根柢とはなれないのではないかと私はひそかに思っている。三木的ヒューマニズムに就いても亦私は、その本当の大衆性を信じることが出来ない。之は優れたイデーである、だがどこかに鮮かでないものがある。 最後に三木清の人となりは何か、と聞くだろう。そうした人身問題に就いて論じることは何よりムツかしいことである。勿論彼は善人でもなく悪人でもない。善良なようで悪党であり、悪党のようで善良である、と云って見たところで無意味だろう。だが一言にして云うなら、彼は一人の小英雄の特徴を有っていると云っていいかも知れない。運命を信じ運命を疑い運命を賭け、得意と絶望との交錯に生きる、というタイプの人柄ではないかと思う。但しそう大きくないスケールに於てである。その正直さも権謀も、決して大きくはない。 私は今日では三木思想に決して同意出来ないものであり、或いは対角線的な対立をなすものかも知れないと思っているが併し三木思想の有つ時代的意義に就いて之を尊重しなければならぬとは、かねがね考えている所だ。彼は最近評論家から段々と再びプロフェッサーに逆もどりしようとしているように見えるが、夫は三木の本質に忠実な所以であって、三木の場合には却って前進ではないだろうか(岩波書店顧問・日大教授・等々も悪くはあるまい)。ともかくこうすることによって、三木清という思想家は少しずつ確実に伸びて行くのだろう。 さてわが親愛なる三木清氏は、わが思想界に於て、北斗星のように輝かないにしても、明星のように光っている。この自由主義者は他の自由主義者の多くの者とは異って、相当抵抗力のある進歩主義者であるように見受けられる。少なくとも「自分」があるということが、この解釈家を生きた市民たらしめているのだ。[#地から1字上げ](一九三六)[#改段]

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