漱石流の文化・漱石流の教養

[#3字下げ]三[#「三」は小見出し]

 漱石自身がどうであったかということが、ここでの問題ではない。漱石流の文化・漱石流の教養・が何であるかが話題である。漱石的教養がシンセリティーを欠くようにも言われるのは、教養が単に教養に止まっていて、まだ本当に思想にまで昇っていないという点からだ。と云うのは、まだ文化・思想・そのものを変革する処の思想となっていないからだ。つまり広範に理解された世界の変革への思想とは独立に、教養がただの教養として、例えば古代のある時代に於ける情熱としての宗教が文化と区別されたような意味での文化として、ただの文化財として、価値を持っているからである。 個人主義かエゴイズムかの限界をつきつめて見ようとした漱石自身の文学上の精神が、社会問題や文化問題に対してどういう態度に出るべく用意したであろうかは、文芸史家の研究に一任しよう。それがどうあろうとも、ここで見ている漱石的文化・漱石的教養・は、そういう関心とは食い違ったものであることに、私は注意を促したい。漱石文化は例えば社会主義やマルクス主義と対蹠的な反対物、その意味で反動的だ、というわけには行かぬ。対蹠や反対や対極というように、同一線に並ぶのではなくて、二つはお互いに縦と横との関係なのだ。それが実際上のエフェクトから云って進歩的な役割をもつか反動的な役割をもつかは、一概には決まらないが、とに角、興味は進歩や反動にあるのではない。あくまで想定された「文化」なるものの水準の高さ一般という抽象物が関心の対象だ。 実は今日に於ける漱石文化のエージェントの一つは、岩波書店の存在なのだ。岩波書店が漱石自身と如何に深い関係があるかは、誰でも知っているが、私の指摘したい点は、岩波書店による出版物の一般的な特色が、正に現在に於ける漱石文化を、如実に物語っている、という点なのである。――そこで言葉は少し妙になるが、岩波出版活動が進歩的か、反動的かということになると、一寸答えるに困るかも知れない。勿論岩波書店の本は大体に於て、政治的意識及び文化的意識をつき合わせて見て、決して反動的とは云えない。寧ろ進歩的なのだ。では社会に於ける進歩性というものだけを主な標準にして見て岩波出版物の品質を充分理解出来るかというと、又決してそうではないのだ。岩波出版物のねらっている点は、所謂進歩的であるか所謂反動的であるかではなくて、それより先に、文化一般という抽象物[#「抽象物」に傍点]についてその水準が如何に高いか、ということにあるのだ。 岩波書店がマルクス主義にぞくする名著を出版するとすれば、それはマルクス主義思想の真実という資格を買ったのではなくて、その文化財としての価値を買うからに過ぎぬ。如何に愚劣な思想内容のものでも、文化的な威容さえ持てば(例えば学殖・学界常識・既成文化圏内の文化的好み・文化的テクニックの発達・等)一つの文化財として尊重される。――かくて岩波臭という一つの好みが、芸術や哲学や社会科学や自然科学の内にさえ発生しているわけなのである。

— posted by id at 02:56 pm  

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