文化財として価値があれば

 文化財として価値があれば、それは真実を持つことだから、思想として愚劣であることなどはあり得ない、と云うかも知れないが、そうではないのだ。なぜというに、ここで文化財と評価されるものは、既成文化をそのまま標準化した際の文化財のことで、無条件に、既成のブルジョア文化の力一杯の精華に他ならぬからだ。学究的実力もあり文化的気品もあるに拘らず、一種思想上の卑俗感を与えるのはこれだ。 阿部次郎(及び安倍能成)を二代目漱石文化の代表者だとすれば、和辻哲郎教授は寧ろ約二代目半の代表者である。前に云ったように谷川徹三氏を三代目とすればだ。処で例えば雑誌『思想』などは、漱石=岩波文化の長処と短処を、最も要領よく現わしているだろう。次郎氏が最近「新思潮」的活動をしなくなったのは、現代の漱石文化が、すでに二代目と三代目との間へ来ているせいだろう。或いは「ケーベル」文化(?)が邪魔をしているのかも知れないが。

[#3字下げ]四[#「四」は小見出し]

 こうした漱石=岩波文化が、今日の学芸文芸の世界に於けるアカデミーの標準と、可なり一致していることは、不思議ではない。漱石文化に立つ岩波的ジャーナリズムは、それ自身アカデミックなものだからだ。ここに岩波書店出版物の学界其の他に於ける信用と名誉とが約束されているのも、又決して不思議ではない。と共に(本屋のことはどうでもいいが)現在に於ける漱石文化なるものが、学界・一部の学芸界・又一般文化界・高尚な常識界・などに於て占める威容ある地位も、容易に理解出来る。 つまり今日の日本の文化人の世界では、而も高尚な文化人の世界では、高級常識から云うと、漱石文化が文化そのもののスタンダードになっているのである。科学でも芸術でも、時には宗教さえが(但し邪教はいけないが)、このスタンダードに照して評価される。之は現下の、日本の意外に強靭な、高級大常識なのである。このスタンダードは、高い文化水準[#「文化水準」に傍点]を意味している。だがそれは高い思想水準[#「思想水準」に傍点]と一つではない。又は(文化という言葉をもっと将来のあるものとして使えば)高い技術水準[#「技術水準」に傍点]を意味しているが、高い文化水準[#「文化水準」に傍点]は意味していない、と云ってもよい。

— posted by id at 02:57 pm  

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