現在の日本に於けるアカデミシャニズム

 現在の日本に於けるアカデミシャニズム、及び云わばアカデミック・ジャーナリズムの、最も優れた形態が殆んど総てここに帰着するように思われる。アカデミシャニズムは往々滑稽なもので風刺の対象であるが、ここのアカデミシャニズムは、最も隙のない形のもので、決して滑稽視される心配のないものなのである。にも拘らず世間からは、色々と不満を持たれているものだ。世間はその不満をうまく云い表わせない。手強い相手なのだ。 でこういう風に漱石文化の特色を展開して来ると、それはもはや漱石自身の文化的伝統とは必ずしも関係のない現象ともなる。要するに夫は、現代ブルジョア日本の文化圏に於ける形式上の高水準、というものを意味するに他ならない。そういう「文化」・「教養」・「気品」・「好み」・を、そしてそれに対する忠実な秀才徒弟の賞揚を、意味するのだ。――がまず漱石門下の漱石文化者だけでも数えて見よう。 哲学では今の処一寸見当らぬ。実証家であった漱石は、あまり「哲学」は好きではなかったようだ(彼は少なくともエルトマン『近世哲学史』の英訳は読んだと思うが)。阿部次郎氏も安倍能成氏も普通の範疇としての専門哲学者ではない。谷川氏もそうだ。西田幾多郎博士の西田哲学は勿論漱石自身とは全く関係がない。尤も西田哲学の社会的意義は、全く(漱石門外[#「門外」に傍点]の)漱石文化にぞくすると考えられるのだが。続いてあげれば倫理学の教授となることに決心した和辻博士位いだろう。 だが之を文芸評論家乃至文芸研究家として見れば、門下的漱石文化のエージェントは、日本の文化の世界に、実に手広い地盤を有っている。両アベを始めとして、小宮豊隆・野上豊一郎・和辻哲郎・其の他の諸氏は、動かすことの出来ない勢力を占めている。又更に直接声咳に接しない半門下的漱石文化人としては谷川徹三・林達夫・本多顕彰・其の他の諸氏を数えることが出来る。どうもこう考えて来ると漱石文化圏の外にいる文化人は何か品が悪いような気さえする。それ程漱石文化は文化的紳士のスタンダードなのだ。 作家では勿論芥川竜之介が、代表者である。久米正雄氏は門下であるが今日ではもはや漱石文化の圏外にある。通俗小説を書くからである。松岡譲氏は門下で家系にさえぞくすると云っていいようだが、文化史上漱石物かどうか研究をまって決めるべきだ。現在の門下的漱石文化人の異色のあるのは、内田百間氏であろう。氏の随筆の隆盛は漱石文化の小スケールな示威運動だ。漱石門下で漱石文化の批判をやらねばならぬ位置におかれている変り種は左翼の作家評論家江口渙氏である。そして池崎忠孝氏はもはや「文化人」ではない。――自然科学関係では寺田寅彦の随筆が、今や一世を風靡している。津田青楓氏は「日本画」に多忙である。等々。[#地から1字上げ](一九三六)[#改段]

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