要素的ヒューマニズム自身

 要素的ヒューマニズム自身が、つまりもしヒューマニズムをそういう元素の形で取り出せるならそのヒューマニズムの元素自身が、決して単数のものではないだろう。例えばルネサンス的ヒューマニズムは一つの元素であって、之はルネサンス以来のブルジョア社会(欧米の)に於て色々の歴史的形態を取って現われている。古典復興――之はキケロに従って古典的教養が唯一の人間的価値と考える、ブルジョア文人的ヒューマニズム(ローマ的な「名声」―― fama ――による芸術家生活の経済的保証に立脚する)、其の他其の他のイタリア的な形態を初めとして、トルストイ的人道主義の変種に至るまでは、一束にして、ヒューマニズムの一元素[#「一元素」に傍点]と考えることが出来るだろう。処がキリスト教以前のギリシアに於けるヒューマニズムとも云うべきものは之とは多少異ったヒューマニズムの他のも一つの元素である。なぜならイタリア・ルネサンス的ヒューマニズムが実は神秘的な宗教的な運動に始まると云われるに反して、ギリシアの夫は真実に対するヘドニックな賞歎によって特徴づけられるからだ(プラトンの『テアイテートス』)。一方が中世的接神術(テオゾフィー)や錬金術に関係ある処の自然に対する人間による征服という一面を失わぬとすれば、他方は人間が自然に於て彫塑的な表象としてのイデー・形象・を見出そうとするものである。之はすでに人間的教養と呼んで了うことさえ出来ないかも知れないのだ(イタリアのルネサンスに就いては、便宜上、K. Vosslep, Italienische Literaturgeschichte を参照)。 日本の文化的伝統(少なくとも自然主義文学以前)ではヒューマニズムというものがないとも云われている。その意味では東洋的自然主義がヒューマニズムの対立物だという見解は優れたものだ(例、三木清氏)。併しこの場合の無いと云われるヒューマニズムとは、略々ルネサンス的ヒューマニズムという一元素としての夫を意味しているに他ならぬ。他の元素としてのヒューマニズムとしてならば、むしろ独特の東洋的乃至日本的ヒューマニズムが考えられ得る、というのが常識だろう。東洋乃至日本に於ては自然に対立拮抗する意味での(之はブルジョア社会の成立と共に発生する現象だが)人間性は重きをなしていない。却って初めから、自然が即ち人間性であり人間性が即ち自然だとされている。日本文化に於ける直覚性とか直観性とかいうものが之だ。 処で之も亦一つの独特な元素としてのヒューマニズムなのである。夫とルネサンス的ヒューマニズムとの相違は今云った通り明らかだが、ではギリシア的なものとの区別はどこにあるか。人によっては、日本文化とギリシア文化との本質的な同一性とは云わないまでも、日本文化のギリシア的特徴を好んで指摘する(例、和辻哲郎氏)。だが日本文化に於ける直覚性乃至直観性とギリシア文化に於ける所謂直覚性乃至直観性とは一つであろうか。純粋[#「純粋」に傍点]な日本的なものと云い得なくても日本文化の伝統的[#「伝統的」に傍点]な本質と考えられている文化の直観性は、例の有名な情緒的な無限定性の謂であるのだから、ギリシア的な表象的な限定性とは凡そ反対なものだ。――して見ると日本的乃至東洋的ヒューマニズムは又一つの別なヒューマニズム元素だということになる。 かくて要素的ヒューマニズムという観念はヒューマニズム一般[#「一般」に傍点]の解明には案外無力であることが判る。ヒューマニズムを一般に人間性の恢復とすることも(例、古在由重氏)、人間性の自然からの独立を有たない東洋的ヒューマニズムに就いては意味をなさないだろう。社会機構による人間性の疎外とは無関係な東洋的人文主義についてもそうだ。単に人間性がどこかに浸潤しているというだけで之をヒューマニスティクだと呼ぶことも出来るわけなのだ。つまりヒューマニズムはヒューマニティー現象かヒューマニティー主義だという一種の同語反覆が、最も無難な、一般的[#「一般的」に傍点]な規定だ。だが之は何物をも規定しないことと同じなのである。

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