ルネサンス的ヒューマニズム

 問題はだから、現在[#「現在」に傍点]問題になるヒューマニズムは、一体どういう要素的ヒューマニズムを素材としたものか、ということが第一である。現在日本で問題になり得るものは併し云うまでもなくルネサンス的ヒューマニズムである。処ですでにここに明らかなことは、日本文化の伝統によるヒューマニズムと、現在日本で問題になるべき、又なっている、ヒューマニズムとが原則上別なもので、対立さえしたものだという点である。現象上の事実としては勿論没交渉ではないが、原則上両者は別なのである。その限り「ヒューマニズム」を振りかざすことが日本文化の伝統を振り翳すことと原則上反対の態度であることを忘れてはならぬのだ。ヒューマニズムとは文化上の日本主義の延長ではなくて、却って日本文化的伝統の止揚の問題なのだ。伝統主義的乃至回顧的なロマン主義はヒューマニズムと凡そ反対なものだということを、特に注意しておかなくてはならぬ。 第二の問題は併し、このルネサンス的ヒューマニズム元素が、現在の日本に於てどういう形を取っているか、又取るだろうか、又取るべきか、である。だが夫には現在の日本に於て所謂「ヒューマニズム」と呼ばれるものが少なくとも一時(之はこの主題の名の下ではそう何時までも続くとは考えられない――或いは一年経たぬ内にこの言葉が魅力を失って了うかも知れない)台頭して来たのが、どういう条件に立脚したものかを、見るのがいい。 ヒューマニズム(寧ろヒューマニズム論議)の流行は云うまでもない、何等かの特定な意味でのヒューマニズムの最近に於ける提唱は、何と云っても「マルクス主義思想の退潮」に基いて生じた。マルクス主義思想の退潮なるものは、思想的装飾のモードとしてのマルクス主義が流行らなくなったということで、実はその裏面から云えば、この思想がそれだけ日常化し常識化したことに他ならぬ。その証拠には、軽薄な文化人達によると、マルクス主義はすでに「常識」で、もう飽き飽きしたと云うのである。 処がよく考えて見ると、マルクス主義思想のこの常識化も、実はまだ本当の常識化ではないのだ。真の常識は、常識であるという理由を以て、無視される筈はない。少なくとも之を自分の常識になったと考えている人間にとっては常識になっていないのだ。マルクス主義の根柢をなす哲学は近代的唯物論以外の何物でもないが、この人間達はこの近代的唯物論によって物を考えて行く代りに、何かの文化的虚栄心を以て逆にこの唯物論を考えて行こうとする。それを用いるためではなしに却って単に夫をながめるためにあるような、思想も常識も、あったものではない。之は常識となったのではなくて、文化の一意匠となったに過ぎない。常識を発展させ展開させるべき使命をもつ文化人が少なくとも日本の中間層的インテリ達が、博大な民衆の常識となるべきものを、インテリの思考のファッションの一種の意匠にして了った。

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