人間性の恢復ということ

さてそこで第二のメシヤとして現われたものがヒューマニズムなのである。之は前に云ったようにルネサンス以来の権威ある旧約に応うものであった。人間性の恢復ということがその予言であった。恰も日本は、今ではもはや何人も疑えないような形で「ファッショ化」の過程(日本型に特有な持久性を有つ処の)を刻々に辿りつつある。それに対する抵抗力がマルクス主義的常識である。して見れば、ファッショ化による人間性の喪失(少なくとも大衆の側に於て)から人間性を恢復するものが、即ちこのヒューマニズムだということになるだろう。一応そう考えられるのだ。――処がヒューマニズム論者は正直な処まず何を考えたか。人間性を何から恢復しなければならなかったか。それはファシズム的統制化からの人間恢復ではなくて、意外にも、リアリズムからの人間恢復だったのである。であればこそロマン主義者や主体主義者がまずヒューマニストを以て名乗り出たのである。 こういう側面から見る限り、この第二のメシヤも例の行動主義という第一のメシヤの再来にしか過ぎない。その積極性や指導性そのものが、抵抗力としてのマルクス主義的常識の、低下者にしか過ぎなくなる。 尤も之はヒューマニズム提唱者の主観的な意図に即してそうなのであって、この現象の客観的な動力は必ずしもここにあるのではない。それが少なくとも多少の大衆性を有てそうに思われるのは、要するに日本ファッショ化過程に対する抵抗力の予防的[#「予防的」に傍点]な高揚として役立ち得るという条件を客観的には持っているからだ。だがそれにも拘らず注目すべき一つの事実は、ヒューマニズムが現在の日本では殆んど完全に単なる文化問題[#「文化問題」に傍点]に止まるものとして取り上げられているという、一つの点にある。現代日本の文化的インテリゲンチャは大衆の社会生活意識からは思い切って独立なので、従って事物を文化問題として取り上げることは、話題をそれだけ大衆から切り離すことをさえ意味している。ファッショ化過程に於ける人間性の剥奪からの人間の恢復は、だから現在の日本では民衆の社会生活の原理としてのコンムニスムスの如きものとはならずに、特にひたすら[#「ひたすら」に傍点]なヒューマニズムとなる理由がある。之はソヴェートに於けるプロレタリア・ヒューマニズムというものとも異るし、ジイド風のコンミュニズム=ヒューマニズムとも別なものだ。このヒューマニズムは文化運動の課題ではあるが、それ故に社会運動の課題ではない[#「ない」に傍点]、ということになっている。――でここに、ヒューマニズム提唱者の主観的意図(尤もその意図が自分自身にハッキリしているなら問題はもっと簡単だがどうもそうではないらしい)を離れても、なお且つ、客観的に、現代日本に於けるヒューマニズムの制限[#「制限」に傍点]があるのだ。制限は二つである、ジイド風のものにまでも行き得ない[#「行き得ない」に傍点]ということと、ましてジイド風のものを越え得ない[#「越え得ない」に傍点]ということと。 だから仮にプロレタリアの人間的解放も亦ヒューマニズムだと云うにしても、それを以て直ちに現代日本の「ヒューマニズム」を律することは出来ない。と云うのは、プロレタリアの人間的解放の体系が何故今日、ヒューマニズムという名で呼ばれねばならぬかが、遂に説明出来ないということにもなるのだからだ(古在由重氏の理論の最後の弱点はここだ)。

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