現代日本のヒューマニズム

 現代日本のヒューマニズムは一つの動き[#「動き」に傍点]であり、まだ限定を有たぬものであり、従って今遽かに限定すべからざるものだというのが日本の文学者達の常識であるようだ(例、窪川鶴次郎氏・阿部知二氏・又他大勢)。(岡邦雄氏は初めヒューマニズムを社会主義的リアリズムに限定すべきであるとなし、最近では之を人間的教養に帰属させようとするらしい)。併し限定という言葉についてはその際何等の検討は加えられていなかった。ヒューマニズム理論を展開することも限定なら、之を既知の何物かに(例えば社会主義的リアリズム)に還元することも限定だと考えられている。だがそれより先に、現代日本のヒューマニズムが、まだ定形をもたぬ一つの動き[#「動き」に傍点]だということは本当だろうが、その動きそのものが、今の処ひたすらな[#「ひたすらな」に傍点]文化運動としての動きに止まっているということから来る制限は、ハッキリさせておかねばならぬ。この種の限定[#「限定」に傍点]なしには、ヒューマニズムについて一言の口を利くことも出来ない筈だ。 ヒューマニズムを動きと見るにしても、之をヒューマニズムそのものの動きとして見るべきではなくて、ヒューマニズム論議という現象[#「現象」に傍点]の動きとしてしか見ることが出来ない、という意見もなくはない(例、本間唯一氏)。だがそういう意見が成り立つためにも、すでにヒューマニズム自身が一つの動きであって、その動きにこうした制限・限定・がある、ということが必要だろう。この制限あるが故に、ヒューマニズム論議そのものに一定の制限が生じて来て、夫が一定の傾向を有つ一束の現象ともなって現われるのだ。 で、現代日本のヒューマニズムの一般的な制限は、つまりその文化主義的[#「文化主義的」に傍点]特色にあるわけである。この制限を破らない限り、民衆の社会常識に立つ反ファッショ的抵抗力と所謂ヒューマニズムとの間には、永久の食い違いが残らざるを得ない。之は結局は現在の日本の文化人が、自分自身を民衆の一員として自覚し覚悟しなければならぬというモラルの問題にもなるが(実際生活上の問題としては文化人が市民としての生活擁護の社会的地盤を造るということにもなるが)、その時このヒューマニズムは更に或る特別な限定を受け取るだろう。というのは、政治上[#「政治上」に傍点]に於ける文化的[#「文化的」に傍点]スローガンとなるのである。

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